医の心
にゅうす・らうんじ 昭和にんげん史
命救う歯科医志願
大阪府豊中市で開業する片山恒夫(79)は、歯を救う歯科医だ。並ではない。二、三回通うと、歯を大切にするよう仕立てられてしまう。「抜いて」と言われて抜いた歯は、半世紀余で十数本だけ。患者が「これは片山先生の歯。使わせてもらってるんです」と笑う。
といって、歯だけが大事なのではない。新患はもう診ないが、以前からの患者が「先生のお陰で人生が明るくなった」と、礼状をくれた。歯の治療中、ごく間接的に生き方をさとしたのだ。
「あの人、歯の回復は物足りないんですが…… よかった」。人生の師にもなって、「医の心」を楽しむこのごろだ。
母・菊野が大正十年に結核闘病7年、32歳で死んだ。長男の恒夫は満11歳だった。猛威をふるった結核による、平凡な庶民の死の一つ。だが、恒夫には数々の大きな影響を与え、「医の心」を作り上げる原点となった。
影響の第一は、満4歳で母と引き離されたこと。感染を防ぐため、恒夫は岡山の祖父母の家に預けられた。母と離れるのはいやだった。若い叔父に連れられ、自宅の宇治から夜汽車6時間を泣きつづけ、泣き疲れて眠った。この情景の記憶は、驚くほど鮮明である。
ぜんそくで体が弱く、学校も休みがち。引っ込み思案のおばあちゃん子だった。
小学3年のとき、母の病気が好転した。大阪のわが家に戻ったが、すぐ母は再発して、二階に寝る身になった。「感染するから会ったらあかん」
恒夫はそっと階段を上り、一番上の段に座って長い時間を過ごした。母に最も近いところだった。きまり悪い。知れたらいかん。声も出さないのに、母はフスマ越しに、「よく勉強せな、いけんよ」などと言った。幼時で母と離れ、やっと同じ家に住んで、面会を禁じられる。フスマ越しに「足るを知る」ほかない。不満が募らぬはずがなかった。
11歳で、母死去。
お医者さんは、「大丈夫、治る」と言っていたのに。だから、あんなに希望を持ったのに。治らないと分かっていて、ああ言ったのかなあ。消えぬ疑問となった。
満14歳のとき、父・茂に後添えが来た。「本当のお母さんは、もっとずっと素晴らしかった!」。女の人を誰彼なく後添えに当てはめてみたが、だれも「お母さん」にかなわなかった。
松江高校文科を受けた(不合格)のは、松江に住んだ小泉八雲の作品の、霊界に引かれたため。母の様子を知りたかったのかも、と思う。「片親の子同士だと、『あんたもだね』と分かります。親のない子を作るのは、やはりよくない、と思いました」。つぶやく片山の言葉に、母を恋うてすすり泣き続けた魂の、長い尾の響きがある。
死は避けられない。だが、早死には別問題だ。医学が母を助けられなかったから、死んだのだ。
「なぜ自分だけ、親が死んだのか!」という不満の中で、思いが怨念に固まっていった。母を奪ったのは医者たちだ。こういうダメな医者にだけはなるまい。
不思議に、「仕方ない」「運命だ」とは考えなかった。電気技師で、合理的な父の考えも影響して、前向きに「何とか助けにゃ」「では、自分はどうする」と考え続けた。浪人中に結論が出た。役に立たずに母を死なせたような医者ではなく、「結果を患者に喜ばれる医者」になろう。再発と無縁な外科で腕を上げ、決して失敗しなければ、確実に命を救える。
ところが、父が反対した。即座に大反対。外科は手術室や設備や病室に、大資本が要る。庶民がやれるものではない。
「じやあ、何になれと?」
父は、外国で成長株の歯科を勧めた。結核は体力勝負。歯がよければ栄養がつき、命を牧える。母の姿がまた、ちらついた。よし、歯を守って命を牧おう。恒夫は歯科の最高学府だった大阪歯科医学専門学校に入った。
歯科の革命めざす
片山恒夫は母の死をバネに、大恐慌の昭和4年、医学の一分野として歯科を選び、大阪歯科医専に入学した。「結果を喜ばれる医者に」と、張り切っていた。だが、歯科医の評価が低いのに驚いた。親類も友人も軽蔑の目付きをする。原因の一つが授業で分かった。学問が未熟で、一年の片山にも間違いと分かることを教えている。
もう一つの原因に、間もなく思い当たった。父・茂の歯を歯科医院で、医専の先生が治療した。
医専で「いけない」と教える簡便法で治療してあった。先生に抗議したら、「世の中は学問だけでは行かん」とかわされた。金が関係するのか。歯科を学ぶ気がなくなり、サボり始めた。
ショックが重なった。結核発病! 母の死がダブる。目の前が真っ暗になった。数年で死ぬんだ。どうしよう。残りの命をどう生きよう。微熱の中で3ヵ月、死を前提に考えた。
せつなに生きる快楽主義は性に合わない。できない。「精いっぱい、世の役に立って死んでゆく」ことにしよう。だが、その生き方が分からない。
友人から、左翼運動の誘いを受けた。
母の病気に金が要り、家じゅう無理をしたなあ。医者の治療なんて、「少し良くして、大きく弱める」だけと思ったものだ。治療で貧乏になって食物をけちり、無理して働くから再発・悪化だ。貧乏からの解放は、大切だ。活動は法で禁じられていた。捕まると拷問。死を覚悟せねばならない。だが、片山は死を前にしていた。怖くはなかった。
オルグが来る。だれかの下宿で5、6人の学習会。目立つな。両隣は留守か。出入りは一人ずつさりげなく。
協力者の本屋でレポの受け渡し。『資本論』はじめ社会主義、共産主義の本はほとんど読破した。『共産党宣言』は受け渡し訓棟で2ページ一枚ずつ回ってきた。
警察に呼び出された。顔の血が引いた。だが初めてのせいか、「続けるとロクなことにならんぞ」と、説諭だけで帰された。
危険にたじろぎはしない。だが、のめり込めない部分があった。革命で庶民が犠牲になる。三分の一が、殺されるか難民だ。自分のように母を奪われる人間が、たくさん出る。それに協力して、納得して死ねるのか?
製糸工場で結核が多発していた。搾取が原因ではあるが、同時に衛生意識 — 栄養や休養不足が発病要因という知識の不足も大きい。個人の意識を高めれば、うんと救えるはず。革命も、個人の意識を高めるのが前提だ。衛生意識を高めるのは、無理なのか?
そんなときドジをした。学校で雑誌『赤旗』を配属将校付下士官に見つかり、取り上げられたのだ。即日、飯塚淳一郎・副校長に呼び出された。
昭和6年。まだ軍国主義全盛ではなかった。大正デモクラシーの残り火があった。「やるなら学校をやめて、命をかけろ。個人的に応援しよう。君だと体が問題だな」と飯塚は言った。
「だが、集まらんと何もできない『お荷物』が何人集まろうと、革命はできまい」の一言が、グサッと来た。「一人でもやる気でやれ。だが、一人ずつ足元から改革すれば、暴力革命は不要になるんやないか」
そうか! これや! 歯科に不満がある。左翼活動も、それが原因だった。よし、不満な歯科を必死に足元から改善し続けて、死ぬんや。
やめます。「転ぶのか」。いえ、足元から歯科を革命します。
一時間の問答の帰り、ずしりと心が重かった。命を、歯科革命にささげねばならないのが、分かっていたからだ。全身全霊をかけ、手段を尽くして歯を救う道が、ここで固まった。「私はいまも、命の残りを生きてます」と片山は言う。
三年後期から、必死の勉強が始まった。
「歯垢が悪者」発見
歯科医・片山恒夫に医者の親類はいなかった。だから、初めは何も知らなかった。昭和4年の大阪歯科医専入学直後、質問時間に挙手して、歯の抜ける理由を尋ねた。
虫歯と歯槽膿漏と半々や。歯槽膿漏は、歯ぐきの骨が炎症などで溶ける。埋まってた歯根が披けて来るんや。あ、歯槽膿漏は、こういう病気なんか。
分かるにつれて、膿漏は多い。老後が悲惨になることも分かってきた。何とかせにゃ。母を失った悲しみをバネに「命を救う」医学の、歯科に来たのだ。「歯を救う」のは揺るがざる命題だった。「理屈は後からつきました。抜いたら負けや、と最初から思っとりました」
膿漏でなぜ抜けるか? 当時、悪者視されたのが歯石だった。抜けた歯には、時に根の先端までびっしり歯石が付着している。「歯石で抜けた」と思いやすい。だが、歯石を懸命に取っても好転しない例が多い。調べ、考えた。歯石で抜けると証明したデータは何もなかった。骨が溶けた後で歯石が付くが、あまり悪さをしないのかもしれない。
歯石のほかに何かあるぞ。
磨かない歯の表面に、ねっとり付く黄白色の歯垢が悪者ではないか。この中のパイ菌が、根に沿って侵入する? とにらんだのは学生時代。昭和7年ごろだった。
「歯垢が悪者」の確定は昭和30年すぎだ。現在も、不勉強な医者は歯垢を放置して、歯石を悪者視する。片山の早期の発見は、まじり気ない「歯を守る」思いから生まれた。
歯を守り、喜ばれるには努力が要った。「冠を長持ちさせてほしい」と、患者は求める。では、冠や詰めものなど修復物が長持ちする要因は何か?
「冠が外れた」と、患者が来る。入れたのが3年前だ。口中の他の冠は、すでに4年もっているのに。この差はどこから来たのか? 歯列の模型をためつすがめつ、千例を超えて検討した。その結果、ぴったり合わせ、しっかり付けるだけでなく、「歯をかみ合わせるとき、上下の相棒の歯が、冠や詰めものにバランスよく当たる」のが重要と分かった。かむ力が修復物をぐらつかせるよう働くと、取れやすい。取れなくても、歯垢があると歯がぐらつく。この認識は、歯科医に現在でも少ない卓見だ。
このように一つひとつ、綿密に労力を惜しまず調べ、じりじり真理を発見していった。
母への思いも、その死に発する医学への恨みも、片山はこだわりが強い。そのコリ性で、患者の最善に文字通り「命がけ」の努力を傾けた。歯と接する冠の「縁」の仕上げは、長持ちの勝負どころ。精密に仕上げるには息をとめ、一息で削る。一姿勢3〜4分かかる。そこで片山は4分間、息をとめる訓練をやった。
普通の体ではない。ぜんそくに悩み、肺結核に侵された片山だ。鬼気さえ覚える。こうして「縁」はぴったり合い、長持ちの基礎となった。だが50歳を過ぎ、二度続けて心臓発作を起こした。二度目で気づいた。長く息をとめるのが原因では? ごく少しずつ、息を吐き続ける方法に変えた。以降30年、発作は陰を潜めている。
片山は結核で死を覚悟し、命の残る間ひたむきに歯を守ろうと誓った。グチを言わず、全労力を傾ける。明治人の律義さだ。だが、恒夫は、育ててくれた祖父・剛太から学んだと感じている。
一つは「歯医者じゃない。歯抜き屋だ」などの、祖父の歯科への不平。自分はあんな歯科医に似てきてないか?
もう一つ、真心。誠意に欠けると、ひどく怒った。この大切さを孫にたたき込んだ。後年、恒夫は「誠意があっても、効果がなければ無意味」と言う父・茂の合理精神に強く反発した。
剛太は、旧備前藩の剣道師範。嘉永五年(1852)の生まれだった。その価値観が片山の治療を通じて、私たちに役立っている。「昭和」は独立してあるのではない。
指導は生活の中で
歯科医の片山恒夫は最初から、自分が育った豊中市岡町で開業した。当時は「中流の下」の勤め人の住宅地だった。
すでに命がけの努力で、歯を「長持ち」させる腕は身につけていた。例えば卒業(昭和8年)後、有名な歯科医院に勤務したが、神経を取った跡の清掃・密閉を、難しい歯は院長でなく、片山が行ったほどだ。痛みが必ずピシャリと治まるから、技術がすぐ分かったのだ。こういうわけで大阪中心部で金持ち相手に開業する技術は十分にあった。そうすれば経済的にも恵まれる、と予想できた。
だが左翼運動にひかれた片山だ。当時は健保もなかった。律義に勤める貧乏人。その健康こそ守りたかった。それが務めと考えての、住宅地開業だった。
しかし、片山流に念人りに治せば高くなる。では、自分の労賃を安くしよう。昭和11年の開業以来ずっと、結婚後も片山の台所には皿が一枚しかなかった。無理して皿をもう一枚買っても、盛るおかずがなかった。
片山歯科は、高いが長持ちする、だから安くつく……という評判が広まった。「患者が大阪人だから、この計算ができたと思いますわ」
片山は少年時代に母を結核で失った後、医者を強く恨んだ。理由の一つは医者が「生活の中に踏み込んで指導してくれなかった」ことだった。
当時、結核には薬がなく、休養、栄養、よい空気が、回復の決め手だった。しかしシロウトは、大切さの程度が分からない。絶対安静と言われても、主婦なら「ちょっと」起きて働いてしまう。どの程度の「ちょっと」が、どのくらい悪いのか。まあ許される「ちょっと」とは、どこまでか。実際の生活を理解したうえで、これを管理してくれなければ。
また……。食うや食わずの家庭では、高級品の卵や牛乳を病人だけが食べられるわけがない。妻や子が病人だと、どうしても遠慮してしまう。医者が家族の暮らし向きを判断し、可能な線まで圧力をかけて、家族を指導しないとダメだ。
こういう、生活まで抱え込んで面倒みる指導がなかった。だから高い医療費を取られ、お説教だけされて、見殺しにされる結果になった。医者が本当に活そうと思えば、抱え込んでくれたはず。「母を奪った医者たちには、誠がなかったんだ!」
患者と医者と立場が逆転してみると、あの恨みの分だけ、こんどは患者への完全な誠を要求されることに、片山は気づいた。
虫歯にしろ歯槽膿漏にしろ、歯の病気は結核同様、再発と悪化が付きもので、しかも性悪だ。歯も結核も、生活の中に病因がある。虫歯なら砂糖。膿漏なら、かまないこと。そしてどちらも、歯磨き不足だ。これを何とか実践させないと、後で恨みを買う可能性がわく。
片山の治療は、患者教育の時間が異常に長かった。
再発防止は、そのまま予防になる。だから知識普及は、片山にとって根本的に重要だった。予防指導をしたい。開業後すぐ学校医を申請した。学校指導を広げ、父母も教育をしよう。
だが、豊中には小中学校が13しかなく、歯科医は2倍以上いた。だいたい古参の歯科医が学校医になり、新米は順番待ちだった。片山は何度も、歯科医師会に催促した。助手でいいから。地域の歯の健康を実現したいんです。熱心に頼んだ。
やっと約4年後、桜井谷小学校を割り当てられた。遠くてバスもなく、自転車で30分かかった。でも大張り切りで、足しげく通った。
まず検診を正確にやった。でないと、どの指導が一番有効か分からなくなる。この後、昼食後3分間の歯磨きを計画した。だが、肝心の子供は磨かなかった。「運動場の遊ぶ場所が、ほかの子に敢られるやんか」。校長に言って、歯磨き学級のための場所を確保させた。また、監視つきと、自由に磨くのとで大差がついた。だれもサボリたいものさ。「生活に踏み込んでの指導」の大切さを再確認した。
学校指導は戦後まで続き、多くの成果を上げた。監視つきで磨くならともかく、そうでないなら同じ3分間で、歯磨き剤を付けないほうが虫歯予防の成績が上がる。
また予想外なことには、磨くと驚くほど「歯ぐき」が改善し、歯槽膿漏の予防にすごく効果がある……。
丹念な歯磨きが、歯の疾患には最重要だと片山は考えるに至った。単に予防や再発防止だけでなく、治療の中心にブラッシングを用いる「片山法」の誕生である。
歯を通じ健康運動
豊中で開業した片山恒夫は戦時中も、結核で「残り少ない」と覚悟した命を完全燃焼させて過ごした。
昭和11年、開業後に再発したが、くじけず、患者に教育を含めて「最善」を施し続けた。学校では、歯磨き指導や予防の成果測定。父母への呼び掛け。「データが次々出て、張り切ってました。次代をはぐくむ国家目標にも合い、世間も協力的でした」
だが、成果を上げる片山の歯科指導とは無関係に、戦争は次第に生活に押し寄せた。爆弾や焼夷弾爆撃で、明日をも知れぬ命。庶民は、歯どころではなくなってきた。
診療所が、伊丹飛行場への道路拡張や強制疎開で続けて移転した。爆撃救護にも駆り出される。配給がかぼそくなる。だが、ひるまなかった。昭和19年、「豊中全児童の虫歯治療」を提言、若干同志と体制づくりを始めた。家庭に治療要請書を出し、ついで治療確認書を取った。
歯の健康に片山は「命を捧げて」いた。ぐずぐずすると、その命が燃えつきる焦りも感じた。検診、予防に次いで、治療を実現できれば、天職の歯科医としての「鎖」が完成するとも思った。
だが、疎開するか、どう空腹を満たすかで必死の庶民。歯への熱意は不足していた。古参医師が「主導権を取られる」と警戒して裏で反対。計画は崩れた。
終戦が来た。混乱の中でも片山だけは、歯の健康だった。
「医者でよかった。思想も行動も変えなくてよい。みんなの健康を考えればいい」。子供の治療推進に、無料化を計画した。虫歯どころではない混乱期。内科医も「歯科だけ無料とは」と裏で策動、計画は予算不足ということにされて、再び挫折した。
占領軍が公衆衛生に熱心と聞き、片山は単身GHQ大阪支所に出掛けて、児童の治療無料化を訴えた。即刻、「やれ」と指示された。占領軍命令で、歯科の全学校医を解任。新組織で校医を増やし、文化映画を有料で見せて、治療基金に充てた。
だが解任で、古参医師が腹を立てて妨害した。民主主義の新しい革袋に実力主義の新酒を満たすには、発酵期間が短く、強引すぎた。三度目の挫折。
戦中戦後の混乱を日本人が一人、天職に命を捧げて動揺せず、終戦詔勅という「切断点」も作らずに、全力疾走し続けた。状況音痴ではなかった。「国家第一」で重要視されない「個人の健康」に、早過ぎる熱意を燃やした悲劇だった。
「『国のため』の大合唱の中で私は、人生とは何か、愛とは何か、といったくだらないことばかり考えてました」。大義より個々の人生、その健康。それを捨てられない。
一連の行動は、個人や自我を踏まえた、片山の「みんなへの愛」だった。戦争に負けても個人は残る。歯を傷め、健康を崩しでもしたら、影響は後々長く尾を引く。それが心配だった。混乱の中、シロウトは歯まで注意が回らない。それは当然だ。「だからこそ専門家がカバーしなければ」
戦後の光明は、意外なところからやってきた。保健所が発展、歯科衛生係を置くから係長に、という依頼が来た。しかも「他人の健康のために、自分は何を差し出せるか」という片山の原点に、新出発した公衆衛生の担い手たちが熱っぽく共鳴してくれた。歯科医がリーダーとなり、一般医がついてきた。片山は自信をつけた。「歯科衛生士」を初めて養成したのも片山たちだ。知識を普及し、患者の心情をくみ取ってもらおう。「女性のこまやかな心を、患者との橋渡しに期待しました」
豊中保健所は全国のモデルとなり、次々成果を生んで、昭和26年、第2回保健文化賞(朝日新聞厚生文化事業団・厚生省後援)を受けた。
しかし片山はもともと臨床医だった。公衆衛生も大切だが、片手間だった。次第に保健所から身を引き、自分では意識せず、片山歯学とも言うべき大系の完成に力を注いでいった。
「患者への最善」追究
歯槽膿漏が怖いという知識は、普及している。だが、原因究明も根治法もずっと遅れた。だから病気の正体も、侵されたらどうするかも知らない患者が多い。
患者にいきなり「あなたは膿漏」と告げると、恐ろしい病気にかかったと思って動転し、闘病精神を失ってしまいかねない。その例も多い。
片山恒夫は、初診患者はもう受けないが従来「初診では膿漏と言わない」を原則としてきた。
「いつ、どう告げれば治すのに最善か」を探りつつ、まず2時間ほど患者の話を聞く。
このように心まで考えた対応は、「患者中心の医療」には欠かせない。片山は応対で一瞬の切れ目なく、その時点での「患者への最善は?」と読み続ける。昭和の60余年、「何が最善か」を考えて過ごした片山ならでは、だ。
完全主義の片山だから、臨機応変の人間との応接はじつは苦手だ。「でも、若いころの人間不信が役立ちました。患者は医者を疑うもの、信用しないもの。それも当然だ、自分も同じだったから。これが出発点です」。長年の実践で一つずつ応対のパターンを作ってきた強さがある。
歯槽膿漏は、原因も治療も定かでなかった。「パイ菌侵入が原因」と見抜いて、昭和11年に開業後、「丹念な歯磨き」の治療を指導した。
「磨くのはどのくらい?」「初め3ヵ月は、日に10時間や」「げえっ」
患者は驚くが、何とか磨かせれば。失敗を重ねつつ、患者の「仕込み方」を覚えていった。
磨き続けると、歯ぐきの赤い腫れが消えてピンクになる。うずき、かみにくい症状も消える。
「ほんまや先生、ようなった」「油断せんと磨きいや。硬いブラシに変えて、日に1時間」。刻々磨き方を変えてゆく極意を発見した。
歯ぐきの色の記録に、色彩表の数字を使った。非常に面倒だが、歯ぐきのどこが何番とカルテに記入した。戦後カラーフィルムが登場すると、「これだ」と飛びついた。前回の歯ぐきを、現在と比較する。最近やっと普及してきた方法だ。
何年か磨くと、歯ぐきが健全な「波打ちトタン」形を取り戻すことに戦後気付いた。歯ぐきに、縦波のうねりが連続する。膿漏に侵されると形が崩れて横一文字のウネになり、治すには手術しかないとされてきた。これが歯磨きで回復するのだから、大発見だ。昭和45年、開業医・片山は、日本歯周病学会でブラッシングの重要性を特別講演した。
修復物も重要だ。精度が悪いと虫歯になる。かみにくい。アゴの関節も異常になる。義歯の、将来の変化も読み難い。完全主義者の片山は、工夫を数々考案した。ときに片山の義歯は洗練度不足などと言われるが、片山にスッキリしない修復物の形の理由を問うと、実にこまかく機能的に考えた結果と分かる。はじめから片山はスマートな義歯でなく、「患者の機能に最善」を目指しているのだ。洗練度不足と指摘する評価は、機能を考え落としている可能性が大きい。
片山は仮義歯を積極利用、膿漏を治してゆく新方法などで「4ヵ月もたせれば、膿漏の歯は救える」メドを付けた。多くの歯科医が仰天する成果だ。妻・百合子(75)との間に生まれた剛(47)は岩手医大歯学部教授(口腔衛生学)に、豊(45)は関西で開業と、共に歯科畑に進んだ。
片山は懇願され、いま人間学と技術の「開業医向けセミナー」に全力投球する。8年間の受講生が、1500 人を超えた。だが、片山法は手間がかかる。まともに実践すると、歯科医の生活が苦しくなる。
「これを超えて広めねば。だが力不足で……」
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昨年秋、『歯槽膿漏を自己採点する』(300円・郵送料415円・30ページ・歯科健康管理センター刊 〒155東京都渋谷区上原1-32-5-201)という、患者が自分で侵され具合を判断できる小冊子を作った。さらに、初めて大系を説く『歯槽膿漏 ―抜かずに治すー』(朝日新聞社刊)を、いま患者向けにまとめている。とても休む暇はない。
(1989年 長倉 功)